今年読んだ本2025

2026-01-02 (updated: 2026-01-03) #読書

大学院進学以降、研究や仕事に追われ、気持ちに余裕を失っていた(おそらく後者が支配的だった)結果、読書習慣というものがほぼ崩壊してしまっていました。

今年は私生活で大きな変化があり、いわゆる実存的危機のような状態にありました。藁をもすがるような思いで何冊もの哲学書を手に取ったのは、その延長だったのでしょう。結果的に、自分の人生観や基本的なものの考え方をいくらか再構成できたように思いますし、それと併せて、読書の楽しさをようやく思い出した気もしています。読書習慣の回復という意味ではまだリハビリ途中ですが、せっかくなので今年読んださまざまなジャンルの本について、寸評を附しながら振り返ってみたいと思います。

なお、ここに挙げた本は、私が読んだ本のすべてではありません。少しでもコメントできると思ったものを恣意的に選んでいますし、必ずしも高く評価しているとは限りません。また、すべてを読了した本というわけでもなく、現在も読み進めている途中のものが含まれています。したがって、本稿は形式主義的な目録を目指すものではありません。

哲学

今年は実存的危機を経験していたので、自ずといわゆる実存主義の哲学者を追いました。特にニーチェはよかったですね。そう言うと「ニーチェに傾倒した」と思われるかもしれませんが、より私の主観的な感覚を正確に表すなら、「私自身が長年思っていたこと/考えていたことの構造を、100年以上も昔にニーチェが著しく精確に言語化していたのを発見した」というべきでしょう。

ニーチェを読む前に、まずカントについて読んでいました。振り返ってみると、私の内的な倫理観は、長年かなり純粋功利主義的なものだったように思います1。物事の判断に際して、いちいち計算ずくで〈功利勘定〉をしていたわけではありませんが、幼少期から繰り返してきた思考パターンによって、ある種の短絡回路が形成されており、私の「直感的な善悪判断」を後から検討すると、だいたい功利主義的な説明がつく——私はそう理解していました。ただ、よく知られているように、功利主義には(トロッコ問題を持ち出すまでもなく)極端な状況において直観に反する結論に行き着いてしまうという難点があります。私自身は政治的権力者ではありませんし、それで実害が生じることもなかろうと高を括っていたのですが、最近は意外とそうも言っていられない状況に出くわすことがあると感じるようになりました。そうした違和感を抱えていた折、ChatGPTとの対話の中で、カントの定言命法を学ぶとよいのではないか、と思い至りました。カントにせよ、後述するニーチェにせよ、いきなり原典に当たるのはさすがに敷居が高く、まずはこの入門書を手に取りました。入門としては、非常にわかりやすい一冊だったと思います。

動機が倫理観の再検討だったため、特に印象に残ったのは定言命法に関わる部分でした。カントの定言命法——汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ——は、きわめて堅い倫理的制約を人に課す原理ですが、いわゆる〈普遍化可能性テスト〉によって、少なくとも形式上は、功利主義に近い形で理詰めの倫理判断が可能である点に知的な魅力を感じました。もっとも、道徳法則への敬意という拘束的な要請を出発点とする構えには、感覚的な納得のしにくさも残ります。結果として、私にとっては採用すべき倫理原理というより、参照点の一つとして有意義、という位置づけに落ち着いています。

カントは精密で硬派な思想だと思いましたが、どうも内的な規準としては受け入れがたい、という感覚が残りました。そうした感覚を抱いた結果、友人やAIから、今度はニーチェを読むことを薦められました。複数のソースから同じ示唆があるのなら、読んでみるしかありません。

ひとまず、最初に目についた入門書を手に取ってみました。もっとも、これは私自身の趣味の問題かもしれませんが、後知恵的に振り返ると、ニーチェ思想の説明としてのわかりやすさという点では、本書よりも、次に挙げるNHK「100分de名著」シリーズの方が読みやすかったように思います(ただし、この本については後述する理由から、評価はかなり否定的です)。おそらく説明の構成や順序の問題なのでしょう。竹田『ニーチェ入門』は、比較的ニーチェの生涯的な時系列に忠実に、第1章でショーペンハウアーやワーグナーとの関わりを交えつつ、初期ニーチェの芸術論から解説が始まります。しかし、この導入は私にはあまりピンときませんでした。単純に、私の関心の方向性の問題かもしれません。冒頭でやや挫折気味になりつつも、第2章に進んだところからは、なかなか衝撃的な内容が続きました。

ニーチェの超人思想については、言葉としては以前から知っていたかもしれませんが、その中身をきちんと理解しようとしたのは、これが人生で初めてでした。にもかかわらず、一般には難解とされるこの概念が驚くほど自然に頭に入ってきたため、私が長いあいだ漠然と心の中で考えていたのはまさにこういうことだったのだろうと感じました。私自身ではうまく言語化できていなかった思考なので、「知っていることが書いてあった」という表現はやや妙ですが、構造としては、これまで考えてきたことが見事に言語化されていただけだと考えれば、読みやすく理解しやすかったのも当然だったと言えます。

なかでも、奴隷道徳と主人道徳の区別、そしてその背景としてのルサンチマンの指摘という認知的フレームワークは、長年私が強く求めていたものだったように思います。「奴隷道徳」という語は字面の圧が強く、誤解されがちな概念でしょうから、表面的な理解に留めず、原典にあたることを勧めたいところですが、あえて端的に言えば、権威そのものではなく、権威に服する態度や慣習全般に対する鋭い批判として理解できます。ニーチェは主としてキリスト教批判の文脈でこの議論を展開していますが、それは当時のヨーロッパにおいて、中心的な「権威」がキリスト教であったという歴史的事情によるものでしょう。同様の構造は、形を変えつつ、現代においても普遍的に観察できるように思われます。そして実際、今なお多くの人々が、その構造に無自覚かつ無批判であるようにも感じられます。私自身の人生設計や対人関係、研究テーマの選び方といった重要な方針決定や価値判断も、振り返ってみれば、主人道徳——すなわち強い主体性の発露——から来ていたのだと説明できそうです。少なくとも私の内的な働きとしては、「それは奴隷道徳であり、ルサンチマンに根ざしたもので、生の活力を否定し削ぐものだ」という理解によって、これまで苦しんできた多くの、妥当に思えない規範的圧力を跳ね返すための、非常に有効なフレームワークを得た感覚がありました。

この入門書をきっかけに、ニーチェの著作や関連書籍を手許にまとめて置き、順に読み進めるようになりました。

ニーチェの生い立ちの確認から始まり、重要でありつつ相対的に平易な概念が、ルサンチマン、ニヒリズム、超人思想、永劫回帰、力への意志という順で導入されており、哲学者の入門書としては、構成も王道で、概ねわかりやすい解説書でした。

しかし一方で、タイトルや副題において中立を装った「ニーチェの入門書」として提示されている点には、強い違和感を覚えます。仮に明示的に「著者自身の解釈によるニーチェ論」として書かれているのであれば、私見が前面に出ること自体は問題にならないはずです。ところが本書では、殊に終盤において、著者独自の「対話」や「共同性」を重視する立場が強く打ち出されており、それがあたかもニーチェ思想の補完であるかのように提示されています。その結果、ニーチェ自身が徹底的に批判した集団主義的価値観や社会規範への迎合に近い色合いが生じており、思想の方向性としては、ニーチェ本来の主張とはむしろ逆向きに位置しているように感じられました。主体性の抑圧や同調圧力を孕む日本社会の現状を批判するどころか、それを結果的に追認・補強してしまっている点には、強い不快感を覚えます。何より問題だと感じたのは、こうした著者の立場や解釈の方向性が、タイトルやまえがきの段階で十分に明示されていないことです。何食わぬ顔で「ニーチェ入門」として提示されている点に、この書物の不適切さが最も端的に表れているように思います。

ニーチェに関しては、原典を読む必要を強く感じたため、『ツァラトゥストラ』を読み進めています。もっとも、まだ読み終えてはいません。全四部構成のうち、現在は第二部の中盤に差し掛かったところです。

あまりに有名な書物なので説明は不要かもしれませんが、本書は「本当に哲学書なのか?」と首をかしげたくなるような、きわめて特異な文体の哲学書です。形式的には小説の体裁を取っていますが、物語として意味のある一篇の小説と読めるものではありません。一見すると意味を掴みがたい文が連なっており、アフォリズムの権化のような書物だと言えるでしょう。もっとも、当時のヨーロッパにおいてキリスト教的価値観が広く浸透していた状況を思えば——現代の日本も、外形上は「宗教」という形態を取っていないだけで、本質的にはさほど変わらないのかもしれませんが——ニーチェの思想を直球で説いたところで、理解されるどころか心理的な防衛反応を引き起こすだけだったであろうことも想像がつきます。そう考えると、あえてこのような形式を選んだ意図については、理解できる気もします。私自身が同じ立場に置かれていたとしても、似た判断をしたのではないかと思います。

ともかく、このテクストの読解には相応の時間を要しています。一日に読み進められるのは、多くても一節ほどです。私は丘沢訳と手塚訳を並べ、両者を対照させながら読んでいます。丘沢訳は現代的な語調で、語彙も比較的平易であり、少なくとも表層的な意味は取りやすい。一方、手塚訳の本文は格調が高く、簡潔で、読んでいて心地よい名文です。ただし、手塚訳の真価はむしろ膨大な注釈にあると感じています。注釈は量が多いだけでなく、理解を助ける情報が丁寧に提示されており、その点は非常に評価できます2。その反面、注釈に引きずられることで、ニーチェ自身が意図した読書体験や理解から、かえって距離が生じてしまう可能性も否定できません。

基本的に私は節ごとに1. 丘沢訳を読む、2. 自分なりに解釈を試みる、3. 手塚訳とその脚注を読み込む、4. もう一度自分なりの解釈を試みる、5. 気になるときはChatGPTと対話しながら自分の解釈が妥当そうか検討してみる、という読み進め方をしています。手順5.はいかにも現代的な読み方だと言えるでしょう3。生成AIとの対話を通して得られる解釈が正しいのかどうかは、正直なところ判断が難しい。しかし結局のところ、ここで問題にしているのは、外部的に〈正しい〉解釈かどうかではなく、自分自身が納得できる解釈を構築できているかどうかです。その意味では、正誤の二分法そのものが、この場面ではあまり生産的でないようにも思います。もっとも、「AIがそう言ったから正しい」という態度には、明らかな問題があります。それは、おそらくニーチェが最も忌み嫌ったであろう思考態度の一つでしょう。

『ツァラトゥストラ』はあまりに難解で、読むのに相応の時間がかかります。そのため、これを読み切る前に、ニーチェのそれ以降の著作を一部先に読み進めることにしました。こちらはアフォリズム集ではなく、「論文」という形式を採っているため、読書体験としては比較的普通です。ひたすら『ツァラトゥストラ』を読み続けたあとに手に取ると、「この人にもまだ正気は残っていたのだ」と、思わず安心してしまいます。もっとも、説明の途中で突如として観念的な言辞が差し挟まれる場面も少なくなく、その点ではやはり油断はできません。

日本人研究者によるニーチェ入門書や、アフォリズム調の『ツァラトゥストラ』を独自に解釈した結果を通して、「ニーチェという人物はおそらくこう考えていたのだろう」と理解を深めてきたわけですが、やはり本人の意図をできるだけ直接確認できる手段がなければ、その理解が独善的な解釈にずれてしまっている可能性を完全には払拭できません。その点で、この書物は、ニーチェの考えが比較的直線的に本人の言葉で語られており、入門書で提示されていた解釈や、これまで私自身が組み立ててきた理解が、少なくとも完全に明後日の方向に逸れてはいなさそうだと確認できる、貴重な機会となりました。

夜と霧
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房

この哲学セクションで取り上げた本の中では、書店で平積みされているのを目にする機会も多く、すでに手に取ったことのある方も少なくないかもしれません。内容としては、心理学者であるフランクルが、ナチスの強制収容所を実際に経験した体験を綴った記録です。本人もまえがきで断っている通り、歴史の叙述を意図したものではなく、あくまで経験者として、一人称で記された自他の外形や内面の観察記録と捉えるのが適切でしょう。扱っている題材は当然ながら暗澹たるものですが、テクスト自体は過度に重苦しくはなく、淡々とした筆致で比較的すらすらと読み進めることができます——ここまでの印象であれば、よくある紹介や書評と大きな違いはないかもしれません。私自身も、初読ではおおむね同様の感想を抱きました。

しかし、本書が高く評価されてきた所以は、単に記録としての完成度が高いとか、心理学的な洞察が的確であるといった点にとどまらないように思われます。とりわけ終盤で語られる、収容所内における精神的な「生き延び方」——あるいは、生き延びた人々に共通して見られた態度を、後から分析した結果かもしれませんが——に関する実存的な洞察にこそ、本書の核心があるのでしょう。その観念的・理論的な深みは、私の印象では、いずれもニーチェの思想のサブセットと言ってしまえるような性質のものに見えました。乱暴に要約すれば、生きる意味は所与のものではなく、与えられた状況の中で「自分がどう生きるか」という態度そのものに、自ら見出し、創り出すほかない、という考え方です。思想体系としての整合性や射程の広さではニーチェに比肩するものではないかもしれませんが、あの極限状態の中で、それを実践的に貫徹したという点には、やはり強い畏敬の念を覚えます。

また、個人の内的な問題というよりも、関係性や社会的なスコープに目を向けて読むと、特に前半部でフランクルが「鉄条網病」として描いている被収容者の精神的構造は、きわめて示唆的に感じられます。それは、私の印象では、現代の先進国に生きる市民4にしばしば見られる、慢性的に過労気味で、どこかニヒリズムを帯びた精神の構造と、大きくは異ならないように思われます。もちろん、そうした社会の住民が、日常的に物理的暴力や生命の危機に晒されているわけではありません。その意味で、外形的な状況は、強制収容所とはまったく異なります。ここで私が問題にしているのは、あくまで人々の精神の構造に限った話です。比喩的に言えば、人々は経済的拘束や同調圧といった、目に見えにくい〈観念的な鉄条網〉の内側で生きているのではないか、という感想を持ちました。こうした見方に納得する人は多くないでしょうし、実際、抑圧されている当人に自覚がないという点も含めて、状況はよく似ているのかもしれません。外形が穏やかであるがゆえに、構造がより抽象的で可視化しにくく、その分、性質としてはかえって厄介だと言える可能性もあります5

カミュの『異邦人』は、「不条理」という概念を炙り出すために書かれた哲学的な書物として語られることが多い一方で、形式としては短編小説です。実際に読んだ印象も私にとっては完全に小説でした。『ツァラトゥストラ』とは対照的!

不条理云々を考える以前に、規範意識や社会常識に対してもともと反発心の強い私にとっては、後半の裁判の場面がひたすら不愉快で、その感情ばかりが強く印象に残っています。おそらく、この不快感があまりに前面に出てしまったために、カミュが意図したであろう作品の核心に、いまだ十分に触れられていないのだと思います。相対的に見ても、物語に登場する“社会側”の人物たちがあまりにも不愉快であったため、作中でもっとも理解し、共感できたのは、あの有名な「太陽のせいだ」という言葉で知られる主人公ムルソーでした。ただし、だからといって、私自身が彼ほど徹底した厭世観や無常観を共有しているかというと、そうでもないように感じます。総じて、この作品は、いまの私にとっては「考えるべきところ」の手前で引っかかってしまい、まだ消化しきれていない一冊です。いつの日か、別の視点を持てるようになったときに、改めて読み返してみたいと思っています。

心理学

これまであまり積極的に読んでこなかったジャンルです。というのも、心理学の本というと、物事を過度に単純化し、結果として安易な自己啓発やライフハックへと収斂してしまっているものが少なくない、という印象を持っていたからです。そのため、手を出しにくかった面がありました。もっとも、ここで挙げた本はいずれも、いわゆる古典に属するものが中心で、それなり以上に深遠でありながら、実践的な示唆も含んだ、よい塩梅の内容だったと感じています。なお、「実践的」とはいっても、今日から使える即効性のあるハウツーや処方箋といった類のものではありません。

今年私が読んだ本の中では、実践面でもっとも役に立ったと感じている一冊です。たとえば、研究活動の中で学生と対話する場面では、本書で学んだことを、できる限り意識するようにしています。

私は日頃から、物事の背後にある〈構造〉について考えることが多く、他者と対話していて、相手の自己欺瞞や誤謬に気付く——少なくともそう感じる——場面は少なくありません。以前は、透明で直線的なコミュニケーションこそが正しく、また親切なのだと考えていたため、そうした場面では直接的に「指摘」してしまうことが大半でした。その態度自体が不正義であるとか、誤っているというわけではないと思いますが、人間関係や対話の効果という観点から見ると、必ずしも最適ではなかったように思います。感情を持つ人間は誰しも、知覚したくない事柄を無意識に回避してしまうものですし、仮にそれを知覚できたとしても、本心からの納得が伴わなければ、行動や認識が持続的に変わることは期待しにくい。そうであれば、一度きりのやり取りがもたらす効果は、どうしても限定的になってしまいます。何らかの欺瞞や誤謬が修正されるとすれば、それは結局のところ、当人が自分自身でそれに気付いたときに限られるのであって、他者から指摘されたときではないのだと思います。

そうした洞察を踏まえて、本書は他者との対話において「謙虚に問いかける(Humble inquiry)」という実践を提案しています。内容の中核は、ほぼこの一点に集約されていると言ってよいでしょう。もっとも、理念として理解できることと、実際に身の回りで生じる状況にリアルタイムで対応できることとのあいだには、大きな隔たりがあります。わかっていれば実践できる、というほど事は単純ではありません。その点で本書の優れているところは、具体的なシチュエーションや過去の事例が豊富に紹介されており、理念を実践に落とし込むためのヒントが随所に示されている点だと思います。とはいえ、著者自身が断っているように、本書はマニュアル本ではありませんし、そもそも対話という営みを完全にマニュアル化すること自体、原理的に困難なのでしょう。本書から学ぶことは非常に多かったものの、実際の会話では、つい結論を先に述べてしまい、あとから「謙虚に問いかければよかった」と反省する場面もしばしばあります。実践には、やはり継続的な日々の鍛錬が必要だと感じています。

なお、一点だけ留保を付すとすれば、本書はかなりアメリカ的、あるいはビジネス至上主義的な文脈を内在しており、事例や書きぶりがビジネスの場面に寄りすぎているきらいがあります。問いかける技術そのものの有効性は、決してビジネスシーンに限定されるものではありません。人間関係や対話といった本来きわめて人間的な営みを、単なるビジネスの〈道具〉として扱うことには、慎重でありたいと思います。

愛するということ
エーリッヒ・フロム
紀伊國屋書店

本書も哲学のセクションに置くことは可能でしたが、内容的には、ある意味で技術論に近いと感じたため、このセクションに配置しました。冒頭から、フロムの「愛は技術である」という有名な主張が提示されますが、読んでみると、確かにその通りだと納得させられます。非常によく知られた一冊であるだけに、全篇を通して学ぶことの多い本でした。

そうした全体的な評価はひとまず措くとして、私が特に驚嘆したのは、非利己主義(利他主義ではありません)という、ともすれば道徳的に称揚されがちな概念が、「自分も他者も愛せない神経症」として批判的に論じられている点です。この指摘には、私自身にも強く思い当たる節がありました。今日では、複雑性PTSD(C-PTSD)をはじめとする診断概念によって、自己否定や過剰適応といった傾向が一定程度言語化され、理解されるようになってきているのかもしれません。しかし、本書が書かれたのは1950年代です。その時代に、特定の診断枠組みに依ることなく、人格のあり方や倫理的態度そのものとして、ここまで踏み込んだ類型化と洞察がすでになされていたという事実には、素直に驚かされました。そういう意味で、本書は一種の古典と呼ぶべきものなのでしょうが、名著とされるだけあってその問題提起は現在においても決して陳腐化しているとは感じられませんでした。

世界史

いま振り返ってみると、私の中高時代は、私にとってひどく抑圧された時期だったように思います。首都圏のいわゆる進学校に属する中高一貫の男子校に通っていましたが、ご多分に漏れず、カリキュラムは受験対策に強く最適化されていました。そのわかりやすい例が、世界史の扱いです。理系選択だった私は、高校に進学して以降、世界史や地理といった科目にほとんど触れる機会がありませんでした。中高一貫校では、理系受験に直接関係しない社会科目は中学段階に“押し込んで”消化されてしまいがちです。当然、学習に割かれる時間は限られますし、その後の詰め込み型の受験勉強の中で、中学生の頃に断片的に学んだ世界史の知識は、ほとんど記憶から失われてしまいました。これは、私にとっては大きな人生上の損失だったと感じています。人生は本来、人生そのもののためにあるのであって、受験や糊口のためだけに切り詰められるべきものではありません。

最近は公私の用でヨーロッパや中東を訪れる機会も増え、現地の歴史的な建造物や遺物に触れる場面が少なくありません。そうしたとき、自分が世界の歴史をあまりに体系的に理解していないことを突きつけられ、寂しさを覚えることがあります。過ぎ去った高校時代を取り戻すことはできませんが、失われた教養を取り戻すことはできます。そこで最近は、高校生向けの教材を用いて世界史を独学しています。今さらながら気付かされましたが、高校の教科書やカリキュラムは非常によく設計されており、知的な密度も高く、大人が読んでも十分に手応えがあります。書籍から得られる知識量を単純にコスト換算するのは適切ではありませんが、それでも、安易な新書に手を伸ばす気が失せてしまうほどの充実ぶりだと感じました。

詳説世界史研究
木村靖二、岸本美緒、小松久男 編
山川出版社

世界史〈再履修〉の中心には、山川出版社の『詳説世界史研究』を据えています。いわゆる検定教科書ではありませんが、その構成に沿いながら、内容をより深く、詳細に展開した書物です。典型的には辞書的に参照されるもので、現役高校生が通読することはあまり想定されていないのではないでしょうか。もっとも、好きで通読する人はいるでしょうが、少なくとも試験対策という観点からは、これを最初から最後まで読むのはやや不合理とも言えそうです6。とはいえ、今さら講義を受けているわけでも、試験対策が必要なわけでもない私の用途には、この本の記述量はちょうどよく感じられます。教科書だけでは行間があまりに大きく、歴史の流れを追うには心許ない一方で、専門書ほど細かすぎると早々に挫折してしまいかねません。その中間に位置する本書は、世界史を通史として読み直すには適度な密度だと思います。実際の読み方としては、この本を軸に、後述する副読本や参考資料を適宜パラパラと参照しつつ、行間はChatGPTとの対話で補ったり、必要に応じて用語を調べたりしながら、かなりゆっくりと読み進めています。進捗は『ツァラトゥストラ』の読書と同様に牛歩で、三か月ほどかけて、ようやく古代を終え、第5章の中世ヨーロッパに入ったところです。

こうして改めて世界史を通史で学び直してみると、中学生の頃に(ほとんど記憶は残っていませんが)急ぎ足で駆け抜けたときには、まったく意識に上らなかった点にいくつも気付かされます。単純に当時とは社会経験の幅や深さが違う、ということも大きいのでしょう。私が言う「行間を読む」というのは、たとえば(さすがにそこまで直球な例は多くありませんが)「はじめに貴族と賤民があった」といった、天地創造的な書き出しに出会ったときに、「なぜ、どのような経緯でそうした身分構造が生じたのか」を、当時の社会的背景を想像しながら考えてみる、というような読み方です。その際には、ChatGPTと対話しながら仮説を立ててみることもあります。もちろん、歴史学の論文を書こうとしているわけではありませんから、細部がハルシネーションかどうかを過度に気にすることはしていません。太古の出来事について、タイムマシンでもない限り「真実」を検証することなど不可能であり、突き詰めれば、通史的理解はすべて仮説の集合体です。重要なのは、自分なりに納得できる説明が与えられるかどうかであり、後から矛盾する証拠に出会えば、その仮説を修正すればよいだけのことです。そうした意味で、この世界史〈再履修〉は、知識の補充というよりも、思考を動かし続けるための作業として、なかなかに楽しい取り組みになっています。

ところで、読んでいるのが「日本のカリキュラムに沿った高校参考書」であるがゆえの独特のクセがあることにも気付かされます。わかりやすいところでは、世界史と言いつつ、記述の重心がかなりヨーロッパ史に寄っている点でしょう7。実際、ページ配分を見ても、アメリカ文明やインド、東南アジア、アフリカの歴史などは、どうしても付け足しのような扱いになっています。もちろん、史料の偏在や研究の進展状況といった、避けがたい事情があることも理解できます。イスラム世界の扱いは比較的丁寧な方だとは思いますが、それでも、たとえば

ムハンマド率いる初期イスラム共同体は622年にヒジュラが必要なほどメッカで迫害されていたが、ムハンマドの天才的な軍事・政治の才によりわずか8年後にメッカに無血入城した

といった記述を見ると、物語として読んだ場合には、「そんなひどい端折り方があるか」と思わず突っ込みたくなるような簡略化がなされていることもあります。もっとも、通史という形式上、ある程度の単純化や省略が避けられないのも事実です。したがって、まずは全体を通読し、そのうえで、カリキュラム上の扱いが弱く感じられたり、個人的に気になった部分については、あらためて専門書に当たりに行く、という進め方が現実的だろうと考えています。

新詳高等地図
帝国書院編集部
帝国書院

これらはいずれも、テクストを通読するタイプの本ではありませんが、『詳説世界史研究』を読むペースに合わせて、随時参照しています。なかでもタペストリーは、結果的にすべての図表とキャプションに漏れなく目を通す形になっています。図を眺めているだけでも十分に面白く、自然と読み込んでしまいます。毎年改訂されているため、学生時代に使っていたという人でも、最新版を眺めてみると新たな発見があるのではないでしょうか。帝国書院に務める友人から聞いた話では、タペストリーには高校生以外にも熱狂的なファン層がいるそうです。実際、巻頭に収録されている歴史資料の読み解き事例集だけでも非常に興味深く、史料とはこういうふうに向き合うものなのか、という感覚を具体例を通して体感できます。

一方、いわゆる地図帳の方は、より低頻度で、必要に応じてちらっと眺める程度の使い方をしています。それでも、歴史と地理が不可分であることは、こうした参照の仕方をしているとよく実感できます。たとえば、なぜこのあたりに国境や文化的な隔たり、さらには文明レベルの境界があるのだろうか、といった疑問を持って地図を眺めると、その間に山脈や砂漠が横たわっていることに気付いたりします。こうした対応関係は、意外と教科書には明示的に書かれていないものです。やはり、自分で仮説を立て、頭を使いながら読み進める読書というのは、それ自体が楽しい営みだと感じています。

小説

小説は昔からあまり読む習慣がなく、今年もそれほど多くは読めていません。他人の人生を追体験することで、自分の人生を単線で歩むよりも奥行きが生まれる、という考え方自体には理解できるところもありますが、自分に合う小説を見つけるのがなかなか難しい、というのが正直なところです。そういえば、カミュの『異邦人』は哲学のセクションで取り上げましたが、形式としては完全に小説です。一方で、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を小説として扱うことには、個人的にはやや抵抗があります。ここでは、あくまで私の読書の〈意図〉が小説に向いていたものだけを、二冊挙げることにします。ネタバレを避ける意味でも、コメントは控えめに留めます。

中高生の頃に一度読んだことがあり、特に全体構造の妙に強い印象を受けていたため、十数年ぶりに再読しました。ゲームシナリオライターの主人公が、全身没入型のVRゲームのテスターとして事件に巻き込まれていくミステリーで、筋立て自体は近年であれば思いつきそうなものかもしれません。しかし、これが1989年に書かれているという事実には、あらためて驚かされます。構造的な面白さは今なお色褪せておらず、再読してよかったと感じました。

ポリアモリーについて調べていた際に参照されているのを見かけ、関心を持った作品です。人間関係や当事者の感情については、理屈で考えるよりも、物語として追体験した方が理解しやすい場合もあるのではないかと思い、手に取りました。主人公の笑子、その夫の睦月、睦月の恋人である紺という三者関係を描いた小説です。登場人物たちの心情は、私にとっては比較的追いやすいものでしたが、1991年という執筆時期を反映してか、世間や家族、親族の価値観や圧力が今と比べてもなお“伝統的”であり、その摩擦には心を痛める読書体験でもありました。もっとも、そうした外部環境の問題はいったん措いて、主人公たちの内面世界に目を向けると、結果的には、意図していた通りの発見や含蓄を与えてくれる作品だったと思います。

グルメ系

美食も人生です。どうしても重い読書が中心になりがちな私にとって、ここで挙げる本は、よい息抜きの位置づけになります。ここで挙げる二冊は友人に紹介してもらったものですが、いずれも非常に楽しめました。

「読むとフランスに行きたくなる危険な本」として紹介されましたが、実際にフランスに行きたくなりました。もっとも、本を読む読まないにかかわらず、私は常に渡仏したがっている人間な気もしますが。とはいえ、フランスそのものというより、フレンチを食べたくなったり、実際に作ってみたくなったりする効果の方が強かったように思います。日本のレストラン「ビストロ パ・マル」を舞台に、軽やかな短編ミステリーがいくつも収録されており、登場人物の性格や心情も丁寧に描かれています。ミステリーとしての技巧、料理を中心とした舞台の情景、そして読み終えたあとの感情の余韻——そのどれもが過不足なく、心地よい塩梅で楽しめました。続編もあるようなので、折を見て読んでみようと思っています。

タイトルの通り、「好きな食べ物が決められない」という一点をめぐって綴られたエッセイです。実にねちっこい。好きな食べ物など、勢いで決めてしまってもよさそうなものについて、「ああでもない、こうでもない」と延々と迷走する——しかし、その一方で行動力はすさまじい——著者の姿を、面白おかしく読ませてもらいました。私自身は、「好きな食べ物は?」と聞かれたら、納豆やナチュラルチーズなど腐敗したもの発酵食品が好きです、と比較的あっさり答えが出てしまうタイプなので、そこまで迷う余地がありません。ただ、定まらない人の気持ちというのも、それはそれでよくわかります。この本を紹介してくれた友人自身がまさにそういうタイプで、その点で“解釈一致”だったことも、個人的な楽しさに拍車をかけていたのかもしれません。


  1. おそらく中学生の頃に、当時話題になっていたマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ際にベンサムやミルの功利主義という考え方に出会ったのだったと思います。サンデルの本である以上、著者の主たる主張や意図はコミュニタリアリズム的な議論に置かれていたはずですが、根っからの個人主義者である私はその点にはまったく共感できず、むしろ歴史的経緯として紹介されていた功利主義の方を強く内面化していったのだと思います。 ↩︎

  2. 某斜め読みシリーズの最新記事や最近リニューアルした私の用語法へのこだわりが爆発している記事で急に脚注が増えたのは、この手塚訳の影響かもしれません。 ↩︎

  3. 否、対話を通して真理を探究する思考様式は、ソクラテス以来の伝統であり、その意味ではきわめて正統な哲学への向き合い方とも言えます。 ↩︎

  4. 私が精緻に観察できるのは、現代日本の私の直接の観測範囲に限られますが、少なくともその範囲の人々。海外のことはよくわかりません。当然、どのような部分集合を取るかで全然違うのでしょう。 ↩︎

  5. 余談ですが、私は漫画『シャドーハウス』にも、これに近い感想を抱いています。あの作品における「生き人形」という設定は、日本の社畜的サラリーマン像に対する、かなり鋭い風刺として読めるように思えてなりません。 ↩︎

  6. 誰かさんの教科書より分厚い科学史のシケプリを思い出しますね。 ↩︎

  7. 真偽不明ですが、AIによると、ヨーロッパ史の中ではドイツ史観に寄っているようで(例えば「ゲルマン人の大移動」なんかは、フランス視点ではそう呼ばれないようです)これは明治期の日本の歴史学流がドイツ流を受け継いだから、などともっともらしい説明がされていました。ありそうな話ではありますね。重要なのは、どこに寄っているかを断定することよりも、どのカリキュラムや書籍にも何らかのバイアスが含まれている可能性を自覚しておくことでしょう。 ↩︎