本稿はTeX & LaTeX Advent Calendar 2025の23日目の記事です。22日目はhid_alma1026さんでした。24日目はk16shikanoさんです。
今年3月、LaTeX公式の初心者向けLaTeXチュートリアル「Learn LaTeX」の日本語版をリリースしました。
Learn LaTeXチュートリアルの内容は、初心者向けにLaTeXの基本的な使い方を丁寧に解説するものとなっています。Overleafや独自のオンラインTeXシステム(TeXLive.net)と連携していて、環境構築不要ですぐにコード例を試すことができる点が秀逸です。

本家チュートリアル(英語版)や日本語版のねらいやコンセプトについてはウェブサイトのミッションページに簡潔に記していますが、本稿ではちょっとした裏話として背景事情や私が日本語版を作成するにあたってあえて「単なる翻訳」を逸脱した部分について綴ってみます。
Learn LaTeX誕生の背景
これはどこか公式に文書化されているような話ではなく、私の推測による——もっとも私の思い違いでなければ国際的なTeX/LaTeXコミュニティの中では暗黙に広く共有されている——背景事情です。
TeX/LaTeXは太古の昔から詳細な仕様も実装も公開されている無料ソフトウェアですが、一方で長らく初心者向けのイントロダクションや網羅的ユーザマニュアルの類は公式かつ無料のものが存在しないという状況にありました。もちろん、TeXにはKnuthのThe TeXbook、LaTeXにはLamportのLaTeX: A Document Preparation System(通称Lamport本)という歴としたマニュアルはあったのですが、いずれも商用書籍で誰でも無料でアクセスできる開かれたものではありません。また、実用的に用いられているTeXエンジンや近年のLaTeXは、これらのバイブルが解説の対象とするオリジナルのTeX/LaTeXからすると増築に増築を重ねた九龍城砦のような状態であるため、それらを読んだからといって必ずしも実践的なTeX/LaTeXの入門になるかというと、そうとも言い切れない状況がありました。
結果的に、これまでは主としてTeXやLaTeXの開発者以外のサードパーティが商用・非商用の「初心者向け」解説を書籍、ウェブサイト、PDF文書などの形で作成し配布する状況が続いてきました。もちろんサードパーティの入門解説の中には優れたものがたくさんありますし、そうした資源によってLaTeXは、公式チュートリアル不在という敷居の高い状況にもかかわらず、大きなユーザベースを獲得してきました。
一方で、サードパーティ資料の宿命とも言えますが、その質や深さは玉石混淆です。本当の「初心者」からすればこれまで「そもそもどの入門資料を読めばいいのか」という問題は常につきまとってきました。質の確実さを求めるとなればもちろん有償書籍という選択肢がありましたが、初心者視点ではまだ使えるかもわからないソフトウェアのためにそのような先行投資が要求されるというのは「敷居が高い」と言えます。この状況は初心者に何らかの入門方法を勧めたい既存ユーザにとっても悩みの種で、実際、国内外の中上級TeXユーザはこの問題に苦心してきました。
このような状況が生じたのは、誰か特定の個人や団体に責任があるというよりも、単にTeX/LaTeXが古いソフトウェアであり、特定の主体の強い制御下にない状態で長く発展を遂げてきたという構造的要因によるものです。より最近になって誕生し、人気を博したツールはうまくこの轍を回避しています。例えばPythonやRustのようなプログラミング言語であれば開発者やユーザコミュニティによって公式のチュートリアルも合わせて用意されるのが、もはや常識となっています。むしろ新しいソフトウェアやツールにとっては、初心者向けのコンテンツをきちんと整備することは普及のための必要条件とすら言えます。
TeXコミュニティの長い歴史による構造的事情がある中で、近年開発活動を活発化させているLaTeXチームが、現代的なソフトウェアや言語の提供するチュートリアルも参考に立ち上げたのがLearnLaTeX.orgというウェブサイトでした。TeX/LaTeXコミュニティの参加者が、「これからLaTeXを学びたい」という方に安心して提示できるリファレンスがようやく誕生したと言えます。もちろん、公式とは異なるスタンスやより深い理解を求めたいという発展的な要求に対しては、これまでに作成されてきた有志による有償・無償のサードパーティコンテンツがこれからも存在意義を持ち続けるでしょう。
日本語版の作成経緯とコンセプト
Learn LaTeXの内容は、オリジナルはすべて英語で書かれましたが、当初から多言語化を念頭においたプロジェクトでした。LaTeXチームは専任のウェブデザイナも巻き込んで、多言語展開するための仕組み(言語切替の機能や書字方向を含め性質が大きく異なる言語でも崩壊しないウェブデザインの設計を含む)を整えていました。ただ、LaTeXチームを構成するメンバーはやはり欧州諸言語話者に偏っていたので、例えば日本語を含むCJK言語への展開を考えればLaTeXチーム外の協力者は不可欠だったでしょう。
そんな中、インターネット上でゆるいつながりのあったDavid Carlisle氏やJoseph Wright氏から、私に「日本語版を作成してもらえないか」と打診があったように記憶しています。私自身も上記の事情を踏まえれば、日本語でも利用可能な公式的LaTeXチュートリアルの存在は切望していましたし、オンラインTeXサービスと連携するLearn LaTeXの仕組みはよくできたものに思われたので、引き受けることにしました。各言語の翻訳を始めるにあたっては、決して軽くはない翻訳作業の重複を避けるために事前にGitHub Issueを立てることとなっており1、私が日本語版のIssueを立てたのは2020年の夏頃です。
LaTeXで日本語文書を作る入門チュートリアルが必要
各言語版の作成にあたっては、もちろんLaTeXチームのLearn LaTeXというサイトに多言語版として載せる以上、英語のオリジナル内容から大きく外れることは望ましくありません。一方で、各言語版において「その言語で、英語のLaTeX文書を作成する方法を説明する」か、「その言語(例えば日本語)で、その言語のLaTeX文書を作成する方法を説明する」かの選択は、翻訳者の裁量に任されていました。
この選択に関して、私は日本語話者の一般的事情を踏まえれば、日本語版については日本語のLaTeX文書の作成方法を説明する方がはるかに自然に思われました2。日本語ではなく英語で文書を作成しようというほど英語が堪能な日本語話者にとってはLearn LaTeXの翻訳は特に必要がないでしょうし、逆に日本語版を強く必要とする人々にとってはLaTeXでも英語ではなく日本語文書を作成することが多いでしょう。解説対象が英語の文書のままでは、結局日本語については標準的に参照できる公式的チュートリアルの不在という状況をあまり解決できない結果になったように思われます。
一方で、この選択は日本語版作成の手間を大きく増大させました。コード例の中身も単純に英語から日本語に翻訳すればよいというものではないからです。英語を含む欧文でのLaTeX文書の作成方法と日本語でのLaTeX文書の作成方法は、ずいぶんと多くの違いがあります。
まず、英語版のLearnLaTeXが前提としていたpdfTeXは日本語組版に適しません。(u)pTeX系もしくはLuaTeXのいずれかを基本に採用する必要がありますが、pdfTeXを前提とする場合とはコードも変わりますし追加で説明すべき内容も少し増えてしまいます。ただ、だからといって初心者を相手にすべてを説明するのも情報過多になってしまうので適切ではないというジレンマもあります。
また、技術的な部分だけでなく組版上の習慣も欧文と和文ではさまざまな違いがあります。例えば、本文の一部を強調する際、欧文では書体をイタリックまたは斜体にするのが普通ですが、和文では太字またはゴシックにするのが一般的です。
オリジナル版のレッスン構成をなるべく尊重しつつ、こうした差異を調整しながら日本語版を作るのは、単に本文を英語から日本語に翻訳すればよい、というのとはかなり異なります。その結果、日本語版の完成までに5年もの歳月がかかってしまいました。これほど時間がかかってしまったのは、途中に2–3年ほど私が学業や本業の都合でほとんど作業を進められない時期があったからという個人的な事情もあるのですが、いずれにしても総作業量や考慮事項は少なくなかったように思います3。
前提エンジン、ワークフロー、文書クラス
現在のところ日本語版Learn LaTeXでは、日本語文書はpLaTeX + dvipdfmxによるワークフローを前提に解説をしています。もちろんほかにもupLaTeX + dvipdfmxやLuaLaTeXといった選択肢もあり、その方が「モダン」であることは承知の上ですが、初心者に複数の方法を提示すると混乱するであろうことから原則pLaTeXのみを解説するようにしています(発展的な内容としてUnicodeエンジンを扱う箇所は除きます)。
この方針に関しては、異論もあることかと思います。特に近年は、ややガラパゴス的でメンテナンスの継続性も危ぶまれているpTeX系の採用に固執するよりも、徐々にでも国際標準の地位を獲得しつつあるLuaTeXに最初から揃えてしまう方がよいという論調もあるのはわかります。しかし、いくつかの事情によりこれからLaTeXに入門する初心者であっても、相変わらずpLaTeXを避けて通れない理由がいくつか見当たるので説明の簡潔性という意味ではやや不利なpLaTeXをやや強引にも採用せざるを得ないと考えました。
その理由の第一は、しばしば初心者がLaTeXを使うことになるような国内学会や学位論文の原稿執筆という場面においては、未だにLuaLaTeXはおろかupLaTeXにすら対応していない指定文書クラス・パッケージを使用せねばならぬ機会が少なからずあるだろうということです。第二はLuaLaTeXの実行速度の問題です。残念ながらLuaLaTeXはpLaTeXと比べると処理速度が遅く、特に最近では無料版Overleafのような実行時間に制約のある環境も普及しているので、ある程度以上の規模の日本語文書をLuaLaTeXで作成すればタイムアウトに苦労することも考えられます。
またオリジナル版のLearn LaTeXも、現時点ではLuaLaTeXではなくpdfLaTeXを全体を通しての前提としており、XeLaTeXやLuaLaTeXは発展的な取り扱いとなっていることも考慮しました。これがpdfLaTeXからLuaLaTeXに変わる時期がいつかくるのであれば、そのタイミングで日本語版も追随するというのは大いにあり得る話です。
文書クラスについては、オリジナル版は標準文書クラス(つまり基本的にはarticle)を原則としていますが、pLaTeXの場合はまさか実用非推奨のjarticleを採用するわけにもいきません。当初は代わりにjsarticleを前提にしていたのですが、近年であればjlreqを事実上の標準とみなしても大きな問題はないように思われたことと、いずれLearn LaTeXの学習者がupLaTeXやLuaLaTeXに移行するかもしれないことを考えると、クロスエンジンな文書クラスが望ましいだろうという理由でjlreqを採用することとしました。
日本語版の独自コンテンツ
現状では量は多くありませんが、日本語特化の「付録レッスン」として2つの独自コンテンツを追加しています。
英語版ではメインのLaTeXエンジンにpdfLaTeXが採用されているのでDVIやDVIウェアの説明をする必要がないわけですが、日本語版ではpLaTeXを採用しているのでDVI関連の説明を補足する必要があります。その役割を日本語独自コンテンツのレッスン1「日本語LaTeXとDVIウェア」に担わせています。
また文書クラスについても、英語版では当然言及のない日本語専用文書クラスについて紹介する必要があったので、日本語版独自のレッスン2「和文用文書クラス」で扱っています。メイン採用しているjlreqはもちろん、jsclassesとその派生(ltjsclassesやbxjsclasses)も紹介しています。地味に、縦書きについてもここでクラスオプションの紹介という形で唯一言及されていますね。
おまけ:純粋翻訳でない主な箇所
翻訳作業を行いながら、あえて直訳を避けたり、追記を行った主な箇所をメモしていたので、以下にそのリストをおいておきます。
| レッスン | 内容 |
|---|---|
| lesson-02 | MiKTeXには日本語用のLaTeXエンジン(pLaTeX)が含まれていないため非推奨である旨の追記 |
| more-02 | 日本語向けに利用できるエンジンはpTeX, upTeX, LuaTeXの3種類であり、pdfTeXやXeTeXは利用できない旨の追記 |
| more-03 | ターミナルでの実行方法の解説にあたり、DVIを経由するワークフローについて追記 |
| lesson-04 | 日本語の強調(\emph)は一般にイタリック体ではなく太字やゴシック化で行われるので記述を変更 |
| lesson-05 | 日本語用の文書クラスについて追記 |
| lesson-11 | \textmcなど和文専用の書体変更コマンドの説明を追記 |
| lesson-16 | 日本語のLaTeX入門書やサポートコミュニティの情報を追記 |
おわりに
今年のTeX & LaTeXアドベントカレンダーの重点テーマは「(La)TeXをカンタンにする方法」とのことです。本稿で紹介した日本語版Learn LaTeXは、技術的にLaTeXを簡単・便利にするものではありませんが、初心者にとっては難攻不落にも見えるであろう現代のLaTeXへの入門を少しでもカンタンにすることを意図しています。その目的が少しでも達せられていることを願います。
中級者以上の(La)TeXユーザのみなさんも、よろしければ初心者から問い合わせを受けたり入門資料を紹介する際はぜひ日本語版Learn LaTeXもご検討ください。また内容の修正や改善、将来的な方針変更の議論がある方はぜひ日本語版のGitHubリポジトリまでご報告ください。
では、よいLaTeXライフを!
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Learn LaTeXプロジェクトのTRANSLATIONS.mdを参照。 ↩︎
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見落としがちかもしれませんが、「あらゆるコンテンツの読み書きを自国語で行うのが当然」というのは、必ずしも多くの国や地域では成り立ちません。英語圏以外でも——さらにいえば英語との文法的・語彙的な差異の大小にかかわらず——ローカル言語の話者人口が少なかったり、リソースが十分に確保できない場合、ローカル言語コンテンツに混ざって英語コンテンツに触れるのが当たり前という環境は案外多いものです。 ↩︎
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本来締切がないボランティア活動ではありましたが、私があまりに悠長に日本語版制作に取り組んでいたのでLaTeXチームの皆さんにご心配をおかけしました。また、重複して翻訳作業を進めてくださった方もいらっしゃり、調整の結果私の版を本家にマージしましたが、心苦しく思っています。 ↩︎