好奇心に溺れよ

2026-04-28 #研究

有名なビジネス書に、安宅和人の『イシューからはじめよ』という書物(以下、『イシュー』)がある。この本について、直接的に私の評価を附すことは事情により憚られるので、かわりに二つの命題を掲げておこう1

  • 命題1「およそビジネス書というものは、私と私に共感するすべての人間には何の価値もない。むしろ有害だ。」
  • 命題2「『イシュー』は、疑いの余地なく、ビジネス書である。」

『イシュー』の面白いところは、同書が序論から「ビジネスにおいても研究においても役立つ」と自称しているところである。これはすでに矛盾している。

ビジネスと研究(あるいは学問)は、昨今「産学連携」「社会実装」などの美名のもとに協調可能であるかのような風説が流布されているが、真実としてはまったく相容れない。いや、あるいは研究が一通り進んだ後にビジネスに展開することはできるかもしれないが、それは研究とビジネスが同化しているわけではない。通常の人間が、「いまから研究を始めよう」という研究の初期段階にあって、その方法論がビジネスと共通であるということは決してない。

なぜなら、ビジネスというのは「お金を儲ける」というシンプルな目標を、安定的・持続的に達成する営みにほかならないからである。ビジネスの場合、目的に鑑みて当然、そのプロセスそのものが再現可能で、安定的でなければならない。こうしたプロセスを、私は「作業」と呼ぶ。

一方で、私が「研究」と呼ぶものは、人類がこれまで実施できていない、まったく新しいことを為すことである。すなわち、そのプロセスは前例がないものであって、したがって安定的でも、持続的でも、再現可能でもない。無論、ひとたび科学的な発見をしたのであれば、その事実が再現可能な手順で示されることは重要だ。もっともこれは〈立証のプロセス〉が再現可能であるべきだというのであって、〈立証プロセスの創造〉自体が再現可能であるということではない。むしろその創造部分――つまり「最初の一回」――に限っては、原理的に人類史上で一度しか起こり得ないことであって、徹底的に再現不能である。

さて、以上から『イシュー』が序論で述べていることはすでに破綻していることがわかる。この本は「作業」の仕方を説明するものとしては出来がよい方2かもしれないが、「研究」の仕方としてはまったく参考にしてはならない。すなわち、研究はイシューからはじめてはならない。

かわりに私は、これから研究をはじめる人には「好奇心からはじめる」ことを強く勧めたい。いや、好奇心からはじめるのがよいが、それだけではまだ不十分だ。好奇心から研究をスタートしたのなら、そのまま好奇心に突き動かされ、好奇心に溺れてしまうことを勧める。真に研究と呼べるものは、まさにそのような方法でしか生まれ得ない。

なぜ好奇心が重要なのか

答えはシンプル――それしか現実的でないからだ。

研究という営為は、大変苦しく長い道のりを歩むことにほかならない3。人類が、いままで誰一人として為してこなかったことを達せなければならないのだから当然だ。いまこの瞬間にも80億と言われる人口があるのに、その歴史的な積み重なりを思えば、いったい今日までに何人の人間が、死力を尽くして生きてきたことだろうか。その誰もが、まだ為したことのないことをしようというのが、簡単であろうはずがない。大きな工夫と努力が必要になることは想像に難くない。

だから、研究を行うあなた自身が心の底から面白いと思える、好奇心の持てる対象でなければ決してその道を進み続けることはできない。他人から与えられたり、唆されたりしたものではいけない。当然、「分野の常識」「正統派の研究テーマ」のようなものにお行儀よく乗っかっただけ、というのも同じことだ。

「そうは言っても、自分が本当に興味を持てる対象、やりたいことなんて、ない。少なくとも、わからない。」

――そんな声が聞こえてきそうだ。安心して欲しい。得てして多くの人間は、自分が本当にやりたいことなど把握していないのである。それはあなたがこれまでずっと、決して自分自身の人生を歩めていない(他人の引いたレールや、社会の設計や周囲の期待に沿って生きている)ということを意味するかもしれないが、それはそれとして現実は現実だ。それでも構わないし、それが悪いことというわけでもない。

ただ、あなたが研究をしたいというのなら、自分の本当にやりたいことは何なのか、じっくり問うてみる価値はあるだろう。答えがすぐに出るなどと期待する必要はない。一度出した答えが真実であると決め付ける必要もない。実際、研究を進めるなかで、「やはり私がやりたいのはこれではなかった」と気付くことはいくらでもある。それでよいのだ。それでよいので、問い続けることが重要だ。

考えるヒント

最初に述べたように、研究という営為は根本的に再現不能なのだから、当然自分の好奇心や研究テーマの見出し方だって人それぞれで、再現性なるものはない。むしろ、こうすれば研究テーマを見つけられる、などと再現可能な手順を示す者がいたら警戒した方がよい。

それでも敢えて、私が思いつく限りの助言をするのであれば、それは「よくよく過去と現在の自分と対話してみること」になるだろう。

あなたがこれまで幾歳か生きてきて、何にも一切興味を持たなかったということはないだろう。別に卑近なものでもよいのである。衣食住や娯楽といった身近なもので構わない。「研究について考えるときは高尚な思考をしなければならない」――このような他人から与えられた、あるいは社会が暗黙に前提して押し付けてくる、一切の考えは捨ててしまった方がよい。これが非常に難しいが、ともかくそうする以外に自分の好奇心ときちんと向き合う方法があるとは思えない。

そうやって、たとえわずかであったとしても、自分が関心を持ったもの/持っているものを集めてみるとよいだろう。逆に、自分がついに関心を持てないものでもよいかもしれない。そうしたものを蒐集して、その中の共通点を探し、言葉にしてみる。あるいは抽象化してみる。わかりやすい共通点かもしれないし、何段階か抽象化してようやく見い出せる共通点かもしれない。

くどいようだが、最初から答えを出そうとする必要はない。ゆっくり、段階的にでも構わないので、自分の関心を一番よく説明できる現象は、性質は、問題は何なのか、探してみるとよいのではないだろうか。

生き様と研究は不可分

ひとつ忠告しておこう。

ここまで述べてきたように、研究をするには、とことんあなた自身の好奇心と向き合う必要がある。だが、それをするということは、社会や集団を含む一切の他人から与えられる価値判断を(少なくとも一度は)無効化してみなければならないということでもある。

一切の外的な価値判断を取り払うことは、おそらくあなたが思う以上に強烈な体験である。我々は日頃、絶えず価値判断をしている――「自分を犠牲にして他人のために尽くすのが善い」「お金はあればあるほど善い」「引用数の多い論文が善い」「職位の高い研究者が善い」etc. こうしたもののすべてを捨て去さらねば自分の好奇心を見つけることはできないが、その影響は人生の、生き様のあらゆる側面に及ぶ。当然、その影響は無視しがたい。

だから、私は人の生き方、あるいは人生そのものと、研究は不可分だと考えている。現に、私の研究を私という個人と人生を抜きに語ることはできないし、その逆もまた然りである。本来の研究とは、真に人間的な行為であって、それ以外でない。ここには論理の飛躍があるのかもしれないが、少なくとも私の経験と観察は、そうである可能性を強く示唆している。だから忠告しておく。

いや、もしかしたら「器用な」研究者なら、研究テーマは自身の好奇心を徹底的に追求しつつ、生活や制度の面ではある程度の妥協を許すということが可能なのかもしれない。――果たしてそうだろうか。全身全霊で好奇心に駆動されて研究している人間に、制度と折り合いを付けるところで「器用に」振る舞う余裕などない。そこに振り向ける「余力」がある時点で、どこかで好奇心に蓋をしているのだ。

実際のところ、あなたがどこまで自分の好奇心に正直でいられているのかは、あなた自身にしかわかり得ないことである。これについては、外部から憶測でものを言っても仕方がない。それでも、どこかで制度と折り合いをつけているということは、研究においても気付かぬうちに妥協をしているのではないか、と点検してみる根拠ぐらいにはなるだろう。

そして、そうすると、きっと綻びが見つかるはずだ。だが、それでよい。いずれにせよ人生は、少なくとも研究者の人生は、自分の思想と価値観と研究と、そういったものの一切を、より自分自身に対して誠実なものへと鍛え続ける営みでしかないのだから。


  1. そして私がいつものようにアフィリエイトリンクを貼らない理由はご賢察いただきたい。もっともこれは同書の尊厳を保つ判断でもある。およそアフィリエイトリンクを貼るなどという行為は、つまり私がほかの記事でしている行いは、ハイエナの所業でしかない。 ↩︎

  2. 『イシュー』は仕事に取り掛かる前に十分な思索を行わず、がむしゃらに手数だけで仕事に取り組むことを「犬の道」として痛烈に批判している。その点はとてもよいと思う。そのかわりに、事前に熟慮して「解くべき問題」を見極めることを勧め、ほぼ全編を通してその方法論を述べている。その方が「効率的」だからだという。しかし惜しいかな、ここに欺瞞がある。手を動かす前によく考え、本当に価値あることが何かを考えよというのであれば、まず「効率的である」ことが善いことなのか、価値なのかを徹底的に疑うべきだと私は思う。その洞察なしに、効率が善であることを所与の前提としたまま「熟慮」と称するのは、いかにも中途半端な態度だ。 ↩︎

  3. ここで問題にしているのはもちろん私が「研究」と呼ぶものであって、「研究ごっこ」や「研究のふりをした作業」は含まない。 ↩︎